結城さんはクリスチャンですが、無信仰の人のことをどう思いますか。
神様を信じればこの人はもっと幸せになれるのにと思うことはありますか。
ご質問ありがとうございます。
ある人のことを「信仰を持っているからそうなんだ」や「信仰を持っていないからこうなんだ」のように考えることは、あまりありません。信仰は内面のことであって、その人が「本当のところは何を信じているか」を外から観察して知ることは難しいと思うからでもあります。
「私は神さまを信じていない」という人に対しては「この方にとってもっともいいタイミングで神さまとの出会いがありますように」とは願っています。
「神さまを信じているからこの人はどうなる」や「神さまを信じていないからあの人はどうなる」といった主張は、よっぽど注意して取り扱わないと、ほんのちょっとした加減で「相手を裁く」行為になります。そのような主張は容易に「自分を裁き手と見なす行為」となり「自分を神の座につけようとする行為」ともなりますので、いくら注意を払っても払いすぎることはありません。
誰かの悩みごとを聞いて「あなたの、いまの、まさにその悩みのためにこそ、イエスキリストは十字架にかかったのですよ」と思う場合は、もちろんたくさんありますし、状況によっては相手に対してそう言う場合もあります。私のWebサイトにも、そのような信仰的な読み物がたくさんあり、ここ数十年公開してきています。聖書に基づいて「イエスキリストを信じることによって、あなたは救われます」のように、大胆に救いを語ることは大切です。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(新約聖書ローマ人への手紙10章より)
その一方で、信仰に関することは、数学を教えることにも似ていて、どんなにいいことでも、藪から棒にぶつけて良いとは思えないです。「私が」伝えることが大事なのではなく、他ならぬ「あなたが」信じることが大事だからです。
と書きながら、でもそれもまた、私の人間的な思いに過ぎないことを自覚するのですが。
人間は本当に、本当に限られた存在にすぎない。と、私はよく思います。
以上です。ご質問ありがとうございました。