2018年06月12日(火)


「(…)主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。(…)戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。(サムエル記上30より)

これはダビデ王の言葉です。ダビデ王が戦いに臨んだときに、途中で自チームが二手に分かれることになりました。ベソル川のほとりにとどまるチーム二百人。そして敵を打つために進んでいった四百人。その二つのチームにわかれて行動することになったのです。ダビデ王と四百人のチームが戦いを終え、成果を上げてベソル川のところに戻ってきたとき、悪い仲間はダビデ王に次のように言いました。

悪い仲間は「彼らはわれわれと共に行かなかったのだから、われわれはその人々にわれわれの取りもどしたぶんどり物を分け与えることはできない」と言ったのです。つまり、ベソル川のほとりにとどまっていた者は戦いの現場に行かず、攻めに行かなかったのだから、報酬の分け前をやれないと主張したのです。

しかし、ダビデ王の答えは違っていました。攻めていった者たちと、守っていた者たちとで、ひとしく分け前を受けるべきだといいました。その場面の聖書箇所を読んでみましょう。

しかしダビデは言った、「兄弟たちよ、主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。だれがこの事について、あなたがたに聞き従いますか。戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。(サムエル記上 30:23-24)

戦いに行き、力を振るい、成果物を直接得た者は、その成果物を「自分の力で得た、自分のものだ」と思いたくなります。何しろ自分の手で得たのを見ていますから。そして、戦いの背後で守っていた者への分け前を渋りたくなります。でもダビデ王の視点は違っていました。

ダビデ王は成果物を「神さまが賜ったもの」と見たのです。だからこそ、戦いに行った者と、背後で荷物の傍にいた者とで、ひとしく分け前を受け取らなくてはならないと言ったのです。

この聖書箇所を読むと「公平」を考えるときには、世界観が大きな意味を持つことがわかります。自分の力がこの成果物を作ったのだと考えるのか、神さまがくださった成果物だと考えるのか。世界観が異なれば、合理的で公平な分配も異なって見えるでしょう。

たとえば「収入を得ている人」と「収入を得ていない人」が一つの家庭の中にいる場合があります。その収入はどこから来たものだと考えるのか。自分の力が作ったものか、それとも神さまがくださったものか。

「(…)主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。(…)戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。(サムエル記上30より)


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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