あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。(レビ記 19:9)
あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記 19:10)
私はこの箇所を読むたびに祖母のことを思い出します。昔、実家の庭には柿の木があって毎年秋になるとたくさんの実をつけました。でも祖母は必ずいくつかの実を木に残しておいたのです。「寒くなって、お腹がすいて、困った鳥さんのために残しておきましょう」と言って。
柿を残しておくときに祖母がレビ記を教えてくれたというわけではありません。幼少期にそのような祖母を見ていて、大人になって聖書を読むようになって、初めてこの聖書箇所を目にしたときに祖母のことを思い出したという話です。それ以来、ここを読むたびにクリスチャンの祖母を思い出します。
「あなたがたの地」や「あなたのぶどう畑」のように、自分の場所であるにも関わらず取り尽くしてはならないと神さまは命じておられます。自分の場所だから、取り尽くしてもいいはずなのに、取り尽くしてはならないと神さまは命じておられるのです。私はそこに深い摂理を感じます。「私のもの」とは何なのかという思いと共に。
私自身はぶどう畑を持っているわけではありませんが、この聖書箇所のことは心に留めています。もしかしたらいつか「ぶどう畑」に相当する何かに対して「その実」を取り尽くしたくなる気持ちになるかもしれないからです。そのときに、この聖書箇所と祖母のことを思い出せますように。