2018年04月23日(月)

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(ヨハネの黙示録 3:20)

  • イエス・キリスト → SYN   → わたし
  • イエス・キリスト ← SYN+ACK ← わたし
  • イエス・キリスト → ACK → わたし

ヨハネの黙示録3:20における「3ウェイハンドシェイク」

人が神を愛する前に、神が人を愛している。ここには深い真実があります。人が神を呼ぶ前に、神は人を呼んでいる。信仰は聞くことから始まる。神の声が聞こえているか。あなたの心の扉を叩く音が聞こえるか。

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。(サムエル記上3:10)

姿は見えないけれど、声は聞こえる。その声に応答するかという話題から、有名な「目から鱗」の聖書箇所も思い出します(使徒行伝9章)

彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

今日、私はどんな声を聞くだろう。

今日、あなたはどんな声を聞くだろう。

声は、よく聞き分ける必要がある(ヨハネ10章より)。

よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 門からはいる者は、羊の羊飼である。 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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