2018年04月07日(土)

質問

キリスト教を信仰することの目的とは、一般にどのようなものですか。

一般に、というのは、キリスト教徒一般に、ということです。

回答

私はクリスチャン代表ではないので、キリスト教徒一般の話をするのは難しいですが、少し書いてみます。

まず「信仰の目的」という表現にはやや違和感を覚えます。「信仰の目的」という表現は「結婚の目的」という表現に対する違和感に似ています。まあ、目的はありますけれど、その目的のために信仰する/結婚するというよりも、「愛する大切な存在と共に歩みたい」気持ちが前にあるからだと思います。

その違和感を理解していただいた上で、あえて「目的」を書いてみますね。大きくは二つあると思います。一つは「この世」の話。もう一つは「あの世」の話。

「この世」では、自分の限られた人生を大切にしつつ、神さまが計画したプラン(使命)を探りつつ、自己の能力を生かし、周りの方々を愛し、幸福な時間で満たして生きること。

「あの世」では、天国で栄光の姿に変えられて、涙も憂いもない、真の愛と幸福に満たされ、この世でいったん別れた愛する人たちと再会して、永遠に生きること。

とてもざっくりと書きましたが、大きくはこの二つが「信仰の目的」と理解しています。

神さまや信仰のことはさておき、誰しも人生を幸福に生きたいと願います。そしてその幸福には「愛」という要素が必要になります。多くの人が(その意味には広がりがありますけれど)「愛」を求めます。

人生の目的は愛です。しかし人間には愛がありません。ですから人間の力だけで愛を生み出すことはできません。人間だけではどうしても罪と呼ばれる自己中心的で傲慢な生き方になってしまうのです。ですから、人間だけの力で人生を幸福に生きることは不可能です。聖書の神さまを信じるというのは愛の源に向かうことです。それは幸福に生きるために大切なことです。

人間を造ったのは神さまです。でも人間は、自己中心と傲慢のために神さまから離れてしまいました。自分がよければいいと考えるのは愛から離れることであり、それはすなわち神さまから離れることです。信仰は神さまのもとへ帰ることでもあります。日々、自己中心ではなく愛を選択しようと心がけることです。信仰すら、人間の力では継続できませんが、愛に生きたい、信仰に生きたいと一歩踏み出すとき、神さまが必ず助けてくださいます。

自分には愛がないと認める。自己中心で生きてきたことを認める。自己中心ではなく愛の道に進みたいと宣言する。真の意味で幸福になりたいと願う。そのために、イエス・キリストが自分の身代わりになって十字架で死んだのだと信じ、それを告白するのが、イエス・キリストに対する信仰告白です。

この悩み多き人生を人間の力だけで送るのは無理だと認める。愛の源である神さまの力を借りて生きていこうとする。それはクリスチャンの生き方です。人間は弱い。自分も弱い。しかし、神さまは強い。しかも、神さまの力は私たちの最も弱いところに働く。弱さを認めるものほど強い。これが信仰の世界です。

良いことをしたからではなく、賢いからではなく、教会に通ったからではなく、聖書を読んだからではなく、たくさんの献金をしたからではない。

自分が自己中心であることを心から認め、イエス・キリストを信じますと告白する。

これだけで、あなたはクリスチャンです。天国で愛に満ち永遠に生きることが約束されます。

このような信仰の世界に関心があるならば、ぜひ、こちらのページもご覧ください。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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