イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。 (ルカによる福音書9:16-17)
パンは五個しかなかったけれど、イエス・キリストが神さまに祈って、それをさいたら、なぜか大勢の群衆が満腹するほどになった。これは、いわゆる奇跡物語の一つになります。
この箇所「五つのパンと二ひきの魚」を中学生の頃に読んだとき、結城は「ああ、こういう奇跡で信者を集めるのか」などと思ったものです。
でも、いまはまったく違う視点で読みます。
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まず、客観的な視点で読むのではなく、その場面が「ほかならぬ私」にどういう意味があるのかという視点で読みます。
それから、そこで表現されているものが「いまの私」にどんな関係があるのか、という視点でも読みます。
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弟子たちが「五つのパンと二ひきの魚」を持って焦っている。どうして焦るのか。たくさんの群衆がいるけれど、手元には「五つのパンと二ひきの魚」しかないからだ。
たくさんの人が満足するように、何か有益なものを提供しなければならない。でも、自分の手元には「五つのパンと二ひきの魚」しかないじゃん! やばいやばいやばい。
ああ、この奇跡物語の弟子たちの姿というのは、まさに自分の姿じゃないか、と思う。
自分には貧弱な能力しかない。たくさんの人に何か有益なものを提供できる力なんてないとしか思えない。自分に、ひとさまに読んでいただく本を書くなんてできないじゃん! やばいやばいやばい。
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聖書がみせる解決は「自分の力でがんばれ!」ではない。貧弱に見えるものでいいから、それを神さまに捧げよと語る。
自分の無力さに気づくと絶望がやってくる。しかし、イエス・キリストはいつも共にいる。
自分が無力だというのは現実だ。しかし、むしろそこから、豊かなものを与えてくれる。
自分は無力だが、神の助けによって大きなことができる。それが神の奇跡。自分の「五つのパンと二ひきの魚」の至らなさを認め、それを捧げることで、大逆転が起きる。それが神への信頼。
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聖書に書かれているものを客観的な対象とみて、そこから知識を得る、という読み方ではない。
聖書に書かれている言葉が、ほかならぬ私、いまの私に対して何を語っているのか。その言葉に、自分はどのように応えるのか。
結城はこんなふうに聖書を読んでいるのです。
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以上「五つのパンと二ひきの魚」のお話でした。
初出:結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2015年6月16日 Vol.168