自分は無宗教なのですが、最近「自分はいつか必ず死ぬ」ことへの恐怖を感じ始めました。死んでしまうといろいろな楽しいこと・好きなことができなくなってしまうし、親しい人とも会うことができなくなると思うとつらいです。こういった感情とどう付き合えばいいのでしょうか。
あなたの感じる恐怖は、ほとんどすべての人がいつかどこかで感じる恐怖であり、人間が避けて通れないものだと思います。
それは大きな恐怖であり、しかも避けがたいものですが、それがあるからこそ真剣に、生きるとはどういうことかを考えたり、限られた時間をどのように使うか、まわりの人とどのように接するかを考える、とも言えそうです。
恐怖というものは感情であり、理屈で制御できるものではありません。それに対して「どのように生きるか」というのは意思であり、自分が日々選びとっていける部分が残っています。
どんなことを日々選んでいこうと思うのか。限られた時間だからこそ、その部分、自分が少しでもできる部分に注目するのは悪くはないと思います。恐怖に対処してなくすのではなく、恐怖があるからこそ真剣に毎日の生き方を考えるということです。
あなたに押し付けるつもりはありませんが、私個人のことを書きます。ここまで書いたことに矛盾するようですが、そもそも自分は「選べない」と思います。とても多くのことが選べません。自分が他ならぬ自分として今ここにいること自体が、この上ない神秘であるのです。
自分にいろんなことができる、と思っているけれど、よくよく(本当によく)考えるなら、真に「私のもの」と言えるのは一体どれだけあるか。ほとんどないことがわかります。
私には「私のもの」と言えるものはほとんどない。私は、聖書の神さまを信じており、私に命を与えて、この世に住まわせてくださったのは神さまであると信じています。自分に比べたら、絶対者である神さまの大きさは果てしないものです。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(旧約聖書ヨブ記)とある通りです。
私自身にも、もちろんあなたと同じ恐怖があります。ないと言ったら嘘になるでしょう。この世から自分がいなくなるというのは、自分が体験したことのないものであり、それは深い恐怖、とてつもなく深い恐怖です。
しかし私は、イエスキリストの救いを信じています。そして、この世から去った後に自分がどこに行くか(どこに帰るか)を知っています。天国です。そこには私のいる場所があり、永遠に愛で満たされていられるのです。
あなたの感じる恐怖に対して「こうすればなくなります」とは言えません。そもそも「対処」したほうがいいのかもわかりません。
私自身は、自分の生きているうちにできることを真剣に考え、限られた時間で「選択」し続けたいと願っています。そのときに、私の根底にあるものは、神さまへの信仰と信頼し委ねるという態度です。
私からの回答は以上です。