結城さんこんにちは。結城さんの記事をいつも興味深く読ませていただいています。
結城さんのキリスト教関係の記事を読んでいて少し質問をしたくなったので、ここに書かせてください。
私はクリスチャンではないのですが、通っていた幼稚園がプロテスタントの教会付属の幼稚園で、小学校に上がった後も一時期日曜日の子ども礼拝に通っていました。もう15年以上前の話です。
最近になってまたキリスト教の教えに心惹かれつつあります。ですが、同時に自分があまりにもプライドが高くて他人を尊敬できていないこと、人間主体な考え方が染み付いてしまっていることにも気づきました。その上、あまり自分のことも愛せていないからが、永遠の命を得るということについて考えたときに恐れのようなものも抱いてしまいます。
以上のことから心惹かれる反面反発心のようなものも芽生えてしまっていて、自分がキリスト教の信仰を持つのは無理なのでは、と悩んでいます。
結城さんはクリスチャンになられる前にこのような悩みを抱いたことはありますか。あったとしたらどうやってキリスト教の教えを素直に受け入れることができましたか。
長々とすみません。もしよかったら回答していただけると嬉しいです。
ご質問ありがとうございます。
私が信仰を得たときというのは、そのことについて悩むほどの余裕すらない状況でしたので、あなたと同じ悩みは抱くことはなかったと思います。
キリストを信じる信仰に関心があるけれど、あなたと同じような悩みを抱く人とは何人も出会ったことがあります。自分の抱く気持ちと正直に向き合っているという意味で、真剣で誠実な態度であると私は思います。
ところで、あくまで不完全な比喩ですが、「自分が病気である」という自覚がある人の方が、病院にいったり治療を受けたりするチャンスがあります。それと少し似ている状況を感じます。
これらはまさに、人間の姿(自分の姿)をまっすぐに見ようとしていると思います。この点に気付かないと、逆に信仰を得る(神さまを必要とする)気持ちになれないと感じます。
永遠の命を得ることに恐れのようなものを感じるというところは、少し私の想像が入りますが「このままの自分の姿で永遠の命を得たら恐ろしいことになるのではないか」というニュアンスでしょうか。だとしたら、まさにその通りです。このままではまずい。この状態のままいったらとんでもないことになる。
古い自分に死んで、新たな命を得る。信仰を得て、洗礼をうけるというのは、その「古い自分に死んで、新たな命を得る」ところにポイントがあります。このままの自分ではなく、新たに生まれた自分になる。キリストが十字架に掛かったことの意味はそこに直結しています。いったん死ぬけれど、よみがえる。
あなたが思っている、このままでは信仰を得ることができないというポイントはすべて、信仰を得るために必要なこと、むしろ必須のことではないかと私には思われます。
以上です。
あなたの信仰の歩みが、これからの人生すべてが、神さまに導かれるものとなりますように。私たちをひとりひとりを愛してくださる聖なる主、イエスキリストの名前によって祈ります。アーメン!