それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。(マタイによる福音書 15:10-11)
今日の聖書箇所は「人を汚すものは何か」という話題である。口にはいるもの(手を洗わずに食べたもの)が人を汚すのではなく、口から出るもの(悪い思い)が人を汚すというイエスの教えが描かれている。
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。(マタイによる福音書 15:18-20 より)
もしも自分という存在が、自分の肉体に限られていると考えるなら、この肉体こそが大切になる。しかしもしも、キリスト教のいうように永遠に生きる命があるのなら、肉体以外の自分も大切になってくる。自分が死後どうなるかの認識が変われば、この世をどう生きるかの態度も変わる。
先ほどの聖書箇所を読み、自分の中にある「悪い思い」を意識し、それを何とかしたいと考えて祈ることは大切である。でも、その「悪い思い」だけに目を向けるのではなく、もっと根底にある自分の「死生観」を確認することも大切ではないだろうか。
死生観を確認するとは「この人生とは、そもそもどういうものであり、自分はこの世での命が終わるまで何をしていく存在なのか」を押さえておくという意味だ。自分の死生観をまったく探ることがないならば、日々揺れる自分の思いに翻弄されて時間を過ごしてしまうのは自明ではないか。
明日大切な試験があると認識している人は「今日は早めに寝よう」とか「明日の朝あわてなくて済むように準備しておこう」とか「最後の復習をしよう」と考えて夜の時間を過ごすだろう。明日は休日で何も義務はないと認識している人は「今晩はのんびり過ごそう」と気楽に夜の時間を過ごすだろう。(念のため:これは喩えである。これを悪いといってるのではない)
このように「明日の自分に何が起こるか」という認識は「今日の自分は何をするか」に大きな影響を与えるのは当然である。同じことが、一日よりも長い単位にも当てはまるのではなかろうか。一年後、三年後、十年後、そして死後。自分はいったいどうなるのか。自分に何が起こるのか。その認識は確実に現在の自分に影響する。自分の抱く死生観が正しいかどうかは別の話である。自分の抱く死生観によって生き方が変わるという話。
自分の死後も、まわりの人々は生き続けていく。だから、自分の死後もまわりの人々が幸せになるような活動をしようというのは素晴らしい考えである。自分の子孫のために、未来のために人生を使う。素晴らしい態度である。人類の文明に貢献するのも素晴らしいことである。
それはそれとして、自分自身はどうなのだろうか。自分の死後、自分は消えてしまい無になるのか。それとも、キリスト教のいうように死後の裁きがあるのか。ここから先は科学の世界ではなく、信仰の世界になる。
私自身は「この世は旅である」と考えている。この世は旅であり、自分はいくつかの荷物と、何人かの知り合いとともに旅をしている。旅は大変なことも楽しいこともある。しかし旅で最も大切なことは「自分は何に向かって旅をしているのか」である。
この世での旅を終え、自分の肉体としての命が終わるとき、私はイエスキリストを信じる信仰によって天国に行く。その確信を持っている。自分が偉いからではなく、自分がそれに値する活動をしたからではなく、ただ一点、イエスキリストの救いを信じているからである。私を天国に引き上げてくれるのは、私の力ではなく、神の力である。自分が死んだ後のことだから当然である。
私の旅のゴールは、天国にある。そして天国は、本当の私の家なのだ。この世での旅を終え、天国で私が目覚めるとき、わたしは「おかえりなさい」と迎えられるのだろうと想像している。私がこの世での旅を終えるとき、本当のふるさとに帰るのである。
私の国籍は天にある。そしてキリストの救いを信じる兄弟姉妹たちの国籍も天にある。この世では会えなくても、旅を終えて天に帰ったときには必ず会える。そのように私は信じている。
あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネによる福音書14章より)