プライベートな決断を科学的な手法(最適化、演繹的思考など)に委ねるのは「信仰」と言えると思いますか。
その場合、決断を委ねた「科学的な手法」は人格を持つのでしょうか。
ご質問ありがとうございます。
決断うんぬんはちょっと置いておきます。「科学的手法(科学的思考)を信頼すること」を比喩的な意味で「信仰」と表現することはあると思います。でも「科学的手法」は人格を持ちません。
何かが人格を持つならば、大雑把にいえば、「それ」は何かを思ったり、感じたりします。ちょうど私たちのように。科学的手法自体が何かを思ったり、感じたりすることはありません。科学的手法を使うときにいろんなことを思ったり感じたりするのはあくまで私たちの側だけです。
以上です。ご質問ありがとうございました。