「(……)わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、(……)ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」(サムエル記上 22:7-8 より)
今日の聖句はサウル王の恨み節。
サウルは、ダビデおよび彼と共にいる人々が見つかったということを聞いた。サウルはギベアで、やりを手にもって、丘のぎょりゅうの木の下にすわっており、家来たちはみなそのまわりに立っていた。(サムエル記上 22:6)
場面は、サウル王がダビデを追う途中。サウル王のまわりにいるのは自分の家来である。
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サウルはまわりに立っている家来たちに言った、「あなたがたベニヤミンびとは聞きなさい。エッサイの子もまた、あなたがたおのおのに畑やぶどう畑を与え、おのおのを千人の長、百人の長にするであろうか。(サムエル記上 22:7)
「エッサイの子」はダビデのこと。「エッサイの子もまた、(……)畑やぶどう畑を与えるだろうか」というのは「私はお前たちに畑やぶどう畑を与えたけど、ダビデは与えるか?与えないぞ」と言っている。「千人の長、百人の長」は位や役職、仕事になる。
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あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」。(サムエル記上 22:8)
「わたしの子」はダビデが難を逃れるために手助けをしたサウルの子、ヨナタンのこと。サウル王は家来に向かって、誰も私の味方をしてくれない!と恨み言、泣き言を言っている。みんな私の敵だ、誰も私に同情しない、私よりもダビデの味方をしている…と、王の言葉とは思えない繰り言が続く。
サウル王がダビデを追うとき、家来に向かって大義名分を語らない。神のご意志を告げることもない。ただ自分の恨み節を家来にぶつける。サウル王の言葉の中心には「みなから見放されたわたし」だけが登場している。
神はすでにサウルを王とはしていないけれど、ここではまるでサウル王自身が「私は王ではない」と告白しているようにも聞こえる。わざわざ家来みんなに対して「私は自分のことしか考えていない」と宣言しているかのようだ。
神はすでにサウルを王とはしていないけれど、サウルもまた神を主と仰いでいないようにも見える。恨み言を神に告げるのではなく、人にぶつけているからだ。自分のなすべきことを主に問う場面もここには記されていない。
さて、ここまで聖書に書かれたサウル王の記事を読んできて、意識を自分に向けてみる。他ならぬ私に意識を向ける。「私の中のサウル王」を点検する。自分のことだけを考える気持ち、自分が受けた痛みや孤独だけを思い、神ではなく人にぶつける気持ちはないか。「こんなこともしてやったのに」と恩着せがましい気持ちはないか。主を主としているか。なすべきことを主に問うているか。
サウルはなんて情けない王だ、と言いたくなるけれど、自分の中にまさにそのサウル王がいるのではないか。
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愛する天のお父さま。あなたの御名を賛美します。あなたは愛なる方。私たちを導いてくださる方。いま世界は大変な状況にあります。どうか主が、私たちを哀れんでくださり、一日も早くこの事態を終息させてください。今日、私たちがなすべきことを教え、そのための力を与えてください。
最前線で戦っておられる医療関係者、ライフラインを支えてくださる方々を主がその御手で守ってください。家で過ごす方々に平安を与え、やむを得ず外出せざるを得ない方をウィルスから守ってください。自分の勝手な判断で動くのではなく、あなたに信頼して動くことができますように。
私たちひとりびとりを愛してやまない聖なる主、イエスさまのお名前で祈ります。アーメン!