サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。(サムエル記上 18:8)
今日の聖句は、ダビデをねたむサウル王。若いダビデが敵のゴリアテを倒して帰ってきたときの記事。サウル王が怒ったのは、女たちの歌に対してだった。女たちは歌い、舞い、サウル王とダビデをほめたたえた。こんなふうに。
女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」。(サムエル記上18:6-7 より)
すなわち、女たちはサウルよりもダビデの成果が大きかったと歌いかわしたのだ。サウル王はダビデをねたんだ。
この場面から時をさかのぼる。そもそも、若いダビデがなぜペリシテびとの戦士ゴリアテを倒せたのだろうか。ダビデとゴリアテが戦う場面をよく読むと、ダビデは自分の力で戦うのではなく、神の名によって戦ったことがわかる。こんなふうに。
ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。(…)」。(サムエル記17より)
では、ダビデはなぜこのような戦いができたのか。さらに時をさかのぼる。神さまがサムエルにダビデを王とすることを告げる場面をよく読むと、神さまはサウルを捨て、ダビデを選んだことがわかる。こんなふうに。
さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。(サムエル記16:1)
それでは、神さまはなぜサウル王を捨てたのか。もっと時をさかのぼってみると、先に離れたのは神さまではなくサウル王の方だったことがわかる。サムエル記上15章で、サウル王は神さまに従わず、自分勝手な判断をした。自分勝手な判断をしたことで、サムエルがサウル王をいさめる場面はこうだった。
サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。(サムエル記上15:22-23)
この時点で、サウルは名前としてはまだ王であるけれど、神さまの目にはすでに王位から退けられたといえる。のちにダビデがゴリアテを倒したとき、人々はサウルよりもダビデをたたえた。しかしそれは、はからずも神さまにそむいたサウルよりも、神さまが選んだ新しい王となるダビデをたたえていたことになる。
サウル王が怒ったときの言葉は「この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」だった。まるでそれは、自分が王ではなくなり、ダビデが新しい王となることに知ったかのように。サウル王はこのとき、サムエルのいさめをはたして思い出しただろうか。自分が神さまに従わなかったことを思い出しただろうか。
サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。(サムエル記上 18:8)
神さまがサウル王を離れたのは、神さまに従わず自分の勝手な判断で行動したからだった。
若いダビデが戦士ゴリアテを倒せたのは、自分の力ではなく神さまの名によって戦ったからだった。
どうぞ神さま。今日も一日、私のなすべきことを示してください。自分の力を頼みにしたり、自分の勝手な判断で動いたりしないように導いてください。
イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン!