私は、自分が人を見下すことによって自己肯定感を高めているのだということに気づいたとき、愕然としました。自分が敵わない相手からは逃げ、自分にとって都合のいい場所で、やりたいことだけやってきたのです。薄々気付いてはいたのですが、そのことに本当に気付いてしまったのです。呆然とするしかありません。私がこれから前に進むためにはどうしたら良いのでしょうか。
多くの人が、人生のどこかであなたと同じことに気づきます。他者を見下し、かなわない相手から逃げ、やりたいことだけやる自分に気づきます。
多くの人が、あなたと同じようなことに気づきますが、それを真摯に受け止める人、真摯に受け止め続ける人は少ないものです。
真実と向き合うのはつらいものです。気づかなかったことにするか。他の人もどうせ同じだと思うか。人生そんなもんだと思うか。あるいは逆に一人で深く考えるか。こんなことをしてるのは自分だけだと思うか。自分で解決できないことを考えて考えて考えすぎて心を病むか。
大事なのは「あなたの行動」は「あなた自身」とは違うという点です。別の言い方をするならば、個々の行動に対して、あなたは「私はこれをよしとする」か「私はこれをよしとしない」を選べるということです。
人間は肉体や精神の制約を持っていて「本来はこうしたい」という気持ちをいつも実現できるとはかぎりません。ですから、後悔したり、自己嫌悪に陥ったりします。自分の好ましくない行動を「このような行動もまた、まぎれもない自分の行動だ」と正直に認めることは大事です。でも「自分はこのような行動をとり続ける存在である」と決めつけてしまうのは危険です。
「あなたの行動」と「あなた自身」が違うということは伝わるでしょうか。
キリスト教で「悔い改め」をする理由の一つはここにあります。人間は失敗する。醜く私利私欲に走る。自分さえ良ければいいと自己中心になる。人間は、例外なくこれです。しかしながら「そのような自分をよしとしてしまうこと」と「いや違う、自分のこんな行動や思いは本来はよくないのだ」のどちらを選ぶのかという選択が残っています。後者を選ぶ姿が「悔い改め」となります。
自分の存在は、肉体を持った今の自分だけではありません。
自分はこんなふうに思うべきではなかったとか、ああ振る舞うのは不正であったとか、わざと意地悪をしてしまったとか、自分が優位に立ちたいためだけにこんなことをした…というときに「あなた自身」は本来どうありたいと願うか。選択です。
どうせ俺は私はこんな人間なのさ、選択も何もないと思うかもしれません。でも、あります。何度失敗しても、何度私利私欲に走ってしまっても、選択は残っています。あなたが生きている限り、この世で生きている時間のあいだ、選択はまだ残っています。本当の解決に至る選択です。
私が知っている「本当の解決」はひとつだけです。悔い改めて神に祈ることです。言い換えると、自分が自己中心であることを自分の行動のたびに認めて、私は本来、正しい方を選びたいと願うことです。でも、これはとても個人的なことであって、誰もあなたに強制はできません。
また、この件については人間はあまりあてになりません。みんな同じ穴のムジナだからです。もちろん私のこともあてにしないでください。あなたがどんなことをよしと思い、どんなことを嫌だと思うかは、あなたのものです。あなたの選択は、あなた自身にかえります。生き方の選択。繰り返す選択。その積み重ねが人生です。
あなたがいま直面している悩みは、とても本質的なものです。人間の深いところをのぞき込んだときに見つかるものです。
ただ、それは、正しく取り扱うことができれば、あなたを豊かな人生に向かうきっかけになるものです。その悩みが良いものだと言いたいのではなく、暗闇に気づくことで、光を求めるきっかけになるという意味です。
あなたのこと、祈っています。ご質問ありがとうございました。