結城さんに質問があります。
人をうらやましく思うのは、あまり良くないことなのでしょうか。
誰かの何かをうらやましく思い、自分の現状と比較してつらい気持ちになるときがあります(SNSを見たりしてもです)。
人と比較しても仕方ない、自分は自分だと切り替えようとするのですが、なかなかうまくいきません。
羨望にとらわれることなく自らの人生に邁進していくことは可能なのでしょうか。
今までの私は人と比較してしまうことが多く、そのたびにうらやましいと思ってしまっていたので、そのような自分を少しずつでも変えていきたいと思い、質問させていただきました。よろしくお願いします。
ご質問ありがとうございます。
人をうらやましいと思うことは誰にでもあります。ただ、その程度は人や状況によってずいぶん違います。
「人をうらやましく思うこと」と「自分がつらくなること」は必ずしも等しいとは言えませんよね。たとえば、他人をうらやましく思うけれど、特に「つらい」とは感じず、自分もあんなふうになりたいなと励みにしていく人もいます。もちろん、そうでない人もいます。
また同じ人でも、うらやましく思う相手やシチュエーションで励みになる場合もあれば、つらくなる場合もあります。Aさんのことは純粋に「うらやましい」だけだけど、Bさんのこととなると身も世もなく苦しくなる。それもよくある話です。
一般論としては「うらやましく思わないようにする」のを直接実現するのはとても難しいと思います。
比較的実現しやすいのは緩和策でしょうね。自分の状況をいろんな意味で良くしておき、うらやましいなという状況が多少発生しても、でも私にはこれがあるみたいに思えるようにすることです。
また、自分が苦しくなるほどの「うらやましい」状況を目にする頻度を減らすこと。SNSの利用法を考え直したり、付き合う相手を調整したりするという意味です。
とは言っても、人間関係なので「うらやましい状況を完全になくす」というのは求めすぎで、せいぜい「いくぶんか減らしていく」くらいになるでしょうけれど。
「他人と無意味な比較をせず、自分の人生に邁進する」のを完全に達成できればすごいですが、まあ、かなり無茶です。ゼロイチで考えるのではなく、「この比較は無意味だけど、どうしてもやっちゃうなあ。まあ、無意味だとわかってるから、よしとするか」くらいに緩和することを狙うのがいいのではないでしょうか。
さもないと「あの人は自分の人生に邁進できているけれど、私は他人をうらやんでばかりいる」みたいに、ややこしい比較が始まってしまいかねません。
実は周りの人もみんな(多かれ少なかれ)誰かをうらやんでいます。みんな人間ですから。つい比較したり、ついうらやましく思ったり。それは誰しもあるのです。ただその頻度や程度に差があるだけです。
自分の中に「うらやみ」の気持ちが存在するのを否定するのはあまり良くありません。だって事実として存在するからです。
確かに自分の中に「うらやむ気持ち」はある。でも、自分はその「うらやむ気持ち」が、自分の人格そのものを傷つけないようにしようと願いましょう。
別の言い方をするならば「私は人をうらやんでしまう。だから自分は駄目な人間だ」のような自己否定に結びつけないようにするという意味です。
自分は他人と比較してしまう。自分は他人をうらやましいと思う。あの人に比べたら自分なんて……と思ってしまう。
しかし。
しかし、だからといって、自分が駄目なわけではない。私は、曲がりなりにも、いまここにいる。しょっちゅうフラフラするけれど、私はいま、ここにいる。そのように、しっかり自分をつかんでおきましょう。
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さて、ここから先は、キリスト教の話になります。
聖書が教える神さまは、私たちひとりひとりを大切な存在として愛しています。条件付きの愛ではありません。これをしたから、あれができるから、だから愛するのではありません。神さまはすべてを持っているのだから、そんな条件付きで愛するわけではありません。あなたそのもの、あなたの人格をまるごと愛しているのです。
神さまはあなたを愛している。これは聖書を通じて理解すべき大切なメッセージです。神さまはあなたを愛している。いる場所や、できることや、持っているものは無関係。神さまはあなた自身を愛している。そんなことができるのは、神さまが愛の源泉だから。
人は、愛されるためにがんばろうとしちゃうけど、本来は正反対です。
愛されるためにがんばるのではなく、愛されているとがんばることができるのです。
土台を作るためにふんばるのではなく、土台がしっかりしているとふんばることができるのです。
わたし自身は、わたしをまるごと愛してくださる神さまの存在を知ってから、自分をまるごと愛することができるようになりました。しょっちゅう忘れそうになりますが、忘れないように毎日聖書を読みます。
ねたみやうらやみは襲ってきます。その存在をないことにはできません。あるからです。でもそれを自分の人格に侵食させないことが大事です。うらやみに人格を制御させない。ねたみに人生を支配させない。そこはがっちり守らねばならないところだと思っています。
私からの回答は以上です。
ご質問ありがとうございました。