親から受ける影響は大きい。
「父親がこう言ったからこうしなくてはいけない」
「母親がこうだったから、自分はそうなりたくない」
こうする、こうしない、こうしたい、こうしたくない、こうなりたい、こうなりたくない。従うにせよ、従わないにせよ、親が基準になっているという点では同じ。どちらの種類の影響であれ、親から受ける影響は大きい。
「金が儲かることは正義」も「金が儲かることは邪悪」も、もしもそれだけを考えているならば「金が儲かるか否か」という軸で考えている点では同じだ。「正邪」という観点に当てはめている点では同じだ。
「こんなことじゃ誰も応援してくれない」も「この人の応援が得られなかったら活動の意味がない」も、「誰かの応援の有無」が基準になっているという点では同じだ。
何かを選んでいるみたいでも、矜持を保とうとしているつもりでも、大前提は実は嫌っている相手と同じかもしれない。
攻撃するにしても、受容するにしても、憎むにしても、愛するにしても、どんな軸で考えているかを考えた方がいい。より効果的に憎み、より深く愛するために。バターナイフで愛するのではなく、日本刀で愛するために。
「親から受ける影響は大きい」や「自分の判断には親の影響が色濃い」ということを素直に見つめると、親の善悪を判断することや、親の正邪を判断することと共に、親を受容することの意味に気がつく。
親を受容することは、自分を受容することにつながる。
「親のここが悪い」や「親のここが嫌い」ということと「でも、あれが私の親だ」ということは同時に矛盾なく存在できる。
受容するというのは、好きになることではない。
正邪とは別に、好悪とは別に、存在を認めるということだ。
便宜上「親」と書いたけれど、実はこれ、すべての人間関係に通じる。親に対して、子供に対して、パートナーに対して、そしてもちろん自分自身に対して。
強い影響を受ける「あいつ」に対して、「あいつのここが悪い」や「あいつのここが嫌い」ということと、でも「あいつを受容する」こととは完全に矛盾なく同居できる。「罪を憎んで人を憎まず」とはそういうことだ。「さばくな」とはそういうことだ。
「あいつ」は、親かもしれないし、子供かもしれないし、パートナーかもしれないし、もちろん自分自身かもしれない。
そんなことを、ときどき思う。