主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(ペテロの第二の手紙3:8-9)
今日の聖句には「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という詩的な表現が出て来ます。しかし、この聖書箇所の文脈では、ふわふわした内容ではなく、警告に近い内容になっています。
誰かがこんなことを言う。「神さまが来るなんて約束はどうなった。なあんだ、昔から何にも変わらないじゃないか。自分は好き勝手に生きよう」と。そのような考えをする人に対する警告です。
警告に続くのがこの聖書箇所。「千年」というのは人間の感覚からすると「長い年月」に感じるかもしれないけれど、実際のところはそうではないんですよ。人間には千年に感じるような長い時間も、神さまにとっては一日のように短い時間なんです。神さまは、あなたが悔い改めるためにじっと忍耐しているのです。でも、思いがけないとき、突然に終わりのときはやってくるものなんですよ。と話は続きます。そしてその「終わり」の描写は、次のように容赦がありません。
しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(ペテロの第二の手紙 3:10)
さて、ここからは聖書を離れて私が想像したことです。「この世の終わり」がどうなるかは誰にもわかりません。聖書を信じる人と信じない人とでは意見が分かれるかもしれませんね。
しかしながら、どんな人にもわかることがあります。それは「この世での自分の命の終わりの日」がいつか来ることです。そして多くの場合、その日がいつ来るかはわかりません。そうではないでしょうか。
そして「終わりの日」、つまり「自分のこの世での命が終わる日」はまさに「盗人のように」やってくるでしょう。盗人のようにというのは、そっと、予告なくやってくるということです。盗人はわざわざ「いまから行きますね」と連絡はしてきません。私たちの「終わりの日」の多くもそうでしょう。自分の「終わりの日」は盗人のようにやってくる。そのつもりで今日を生きましょう。
一日は、自分にとっては短い時間です。いつもと変わらぬ一日。でも、神さまにとってはそれは千年のような意味を持つ一日なのかもしれません。かけがえのない、千年のような一日。それが今日、この日なのです。
もしも自分の命が今日一日で尽きるとしたならば、確かに今日という一日は千年の価値を持つ時間となるに違いありません。一秒一秒が愛おしくなるような、そんな一日。
主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
あなたの今日が、豊かな時間で満たされた素晴らしい一日となりますように!