また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。(マルコによる福音書 11:25)
誰もが「公正な裁き」を求めます。けれども、その公正さとは何でしょうか。
誰かを深く恨んでいるとき、恨んでいるその相手に相応の罰が与えられるように願うのは、まあ、自然なことです。「あれほどひどいことをしたんだから相応の罰が与えられて当然でしょう。それが公正な裁きというものです」と言いたくなります。
でも、そのように公正な裁きを願うとき、同じ公正さが自分に臨んだらどんなことが起こるかを想像する人は少ないものです。
「あいつが同じ苦しみを味わうなら、私はどんな苦しみでも耐えられる」と考える人は多いでしょう。でも、落ち着いて考えてみるとそれは効果的な「恨みの晴らし方」ではありません。
最も大きな恨みの晴らし方は相手を赦すことです。そうすれば「自分」という制約を離れて、相手に公正な裁きが下るからです。
私が誰かをゆるしたら、それと同じ基準で私はゆるされます。神さまは公正だから。私が誰かをゆるさないなら、それと同じ基準で私はゆるされません。神さまは公正だから。あいつにこのくらいひどい仕打ちがあればいいのに、と思う基準で自分にひどい仕打ちが来るかもしれません。
私が誰かを恨み続けるなら、その恨みが続く限り、その「誰か」は私の中で生き続けることになります。その「誰か」がこの世からいなくなったとしても、自分が恨み続けている限り、その存在は生き続けます。恨み続けることが、恨む相手の命を伸ばしていることになりますね。おやおや?
私が誰かをゆるすなら、その誰かの生き死と人生における処遇は、神さまに委ねられます。その「誰か」はきっとまた別の誰かを恨んでいるでしょう。そして公正な裁きを受けるでしょう。でもそれは、その誰かの人生であって、私の人生ではありません。
仮に、恨みを晴らしたいほど憎んでいる相手がいたとして、私ができることはせいぜい人間ができる範囲だけです。どこまでも相手を追い続けることはできません。でも、相手をゆるすなら、公正な裁きは神様に委ねられます。そこには人知を超え、この世を離れた後にも続く範囲の手段があることになります。
人間はみな似ています。憎らしい相手の姿は、時を変え、場面を変えたときの自分の姿に他なりません。決して認めたくはないけれど、きっとそのはず。だからこそ、人を赦すことが、自分を赦すことに直結しているといえるのです。
私は、そんなふうに思っています。
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。(マルコによる福音書 11:25)