施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。穀物を、しまい込んで売らない者は民にのろわれる、それを売る者のこうべには祝福がある。(箴言 11:24-26)
今日の聖句は、旧約聖書の箴言11章です。この「物惜しみしない者は富み」という箇所を読んでいると、ふと新約聖書の「タラントのたとえ」を思い出します。主人から預かったタラントを地の中に隠して叱られた記事のことです(マタイによる福音書25章25節)。
聖書では、富でも能力でも活動でも「惜しんで隠す」方ではなく「惜しまず与える」方を推奨することが多いように感じます。
「惜しむ心」というのを「固執する心」と考えることもできるかもしれませんが、今日はふと別のことを思いました。「惜しむ心」がどこから来るのかを探ってみると、もしかしたら「本来の所有者を勘違いしているところ」から来ているのではないでしょうか。つまり、富や能力や活動を「自分の所有物」であると勘違いしているということです。
自分の所有物だと考えると「これは自分の所有物だ。だから自分の自由にできるのだ」という気持ちになります。自分のものを、どうして自分以外のために使わなくてはいけないのか、と思ってしまうのです。
真剣に考えてみると、法律的な話ではなく、本質的な意味において「自分の所有物」といえるものってあるんでしょうか。
ヨブ記第1章も思い出されます。
わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。(ヨブ記 1:21 より)