2018年08月27日(月)


質問

神の存在を、公理を仮定するようにとらえることはできないでしょうか。

回答

「神の存在を、公理を仮定するようにとらえる」というのは、一つの考え方ではありますし、大事な場合もあります。「天地万物を作った神が存在し、自分を愛していると仮定しよう」という前提を置いて、自分の行動をどう考えるかという意味です。

それは一つの考え方ではありますし、私自身もそのように考えることがあります。また、有名な標語で What would Jesus do? (WWJD)というものがあります。これは、何か判断に迷ったときに「もしもイエスさまだとしたら、どうするだろう?」と考える信仰者の行動指針のことです。このWWJDも「仮定」を置くという意味ではちょっと似ていますね。

でも「神の存在を、公理を仮定するようにとらえる」というだけでは、神のすべての特性をとらえることはできません。「神を公理と考える」という姿勢を注意深く吟味すると問題点が二つ見つかります。ひとつは「自分と神とを分離して考えている」という問題点。またもう一つは「神を研究している自分」という問題点です。

「自分と神とを分離して考えている」というのは、神について考えるときに陥りがちな問題点です。キリスト教では、神と人間(もっといえば、ほかならぬ自分)との関係がきわめて重要な意味を持ちます。「父なる神」という表現自体がそれを物語っています。抜き差しならない神と自分との関係があってこそ、何かを知ったり、何かを得たりするのです。

「神を研究している自分」というのもまた、神について考えるときに陥りがちな問題点です。現代人は自覚なしに科学的立場に立ってしまいがちです。自分を観察者とする。言及しているものは観察対象や研究対象とする。そのようなスタンスに無自覚に立ってしまいがちです。でもそれは、本当に適切な立ち位置なんでしょうか。

一匹の蚊が、人間のまわりを飛び回って「私はこの人間を研究してやろう」と思うことは適切な立ち位置なのか。小さな砂粒が(もしも考える能力があるとして)「全世界と全宇宙を研究してやろう」というのは適切な立ち位置なのか。

もちろん、人間は知恵を持っていて、この宇宙や自然界を十分に探索し研究できるでしょう。私が考えているのはもっと別次元の話です。私たち人間は、認知できない部分については認知できません。この全宇宙を創造した存在に対する自分の立ち位置については、注意深く考える必要があります。

信仰について考えるときや、神について考えるときには、普段の私たちの前提としている状況をはるかに越えた内容を議論しようとしていることを忘れてはいけません。深く考える、といいつつ「この宇宙」にこだわっていないか。自由に考える、といいつつ「自分の経験」にこだわっていないか。科学的世界観に依存しすぎていないか。

よくよく思い出してみると、私たちは誰一人の例外もなく「はっ」と気付いたときには「この世」で自分の人生を生き始めていました。どうして他ならぬあなたがあなたなのかという説明は受けなかった。どうして現代に生まれなければならないかというレクチャを受けたわけでもない。「はっ」と気付いたときには生まれていた。そしてたかだか百年の後には、わけもわからないまま、この世を去って行くのです。誰一人の例外もなく。

神について考えるというときには必ず、自分とはそのような非常に脆弱でフラジャイルな存在であるということを踏まえなければなりません。自分は吹けば飛ぶような存在であり、宇宙的感覚では一瞬で無になりかねない存在である、ということを自覚する必要があるのです。

質問からはるかに越えてしまったので、この辺で文章を閉じましょう。「深い思考」とは何か。「自由な発想」とは何か。「はっ」と気付いたらこの世で生活していて、たかだか百年しか生きない自分の「存在意義」とは何か。そんなことを思いつつ、文章を閉じます。ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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