「あなたは王宮にいるゆえ(…)難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。(…)あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。(エステル記4:13-14より)
今日の聖書箇所は私の大好きな場面。王の寵愛を受けた王妃エステルが育ての親モルデカイにたしなめられるシーンです。
もともとの仲間の危機を救うために、エステルは王に願う必要がありました。でも自分の側から王に何かを持ち出すと、エステル自身の命が危うくなるかもしれません。そんな場面でエステルはためらいます。自分は王妃の立場だから、たとえ仲間が危機に瀕しても自分一人は助かるかもしれない、と彼女は思ったかどうか。
そこで今日の聖書箇所のシーンになります。育ての親モルデカイは王妃エステルに言います。「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」と。モルデカイが言っているのはこういうことです。あなたが王妃になったのは、あなたがいま特権的な立場に立っているのは、いったい何のためなのか。モルデカイはそう問うているのです。
このような時に、あなたは黙っていることもできます。あなたが黙っていても助けは他のところからやってくるでしょう。しかし、あなたが難を免れるだろうとは思ってはいけません。あなたが、いま、ここにいるのは何のためでしょうか。
これは遠い国の物語ですか。遠い時代のおとぎ話ですか。まったくそんなことはありません。「私が、いま、ここにいるのはなんのためか」という問いは普遍ではありませんか。
あなたが、いま、その立場に立っているのは何のためか。
自分が努力して、自分の力で、いまの立場を作ったのだ。だから、私はもうこれでいいのだと、それで終わっていいのでしょうか。私が、いま、ここにいるのは、何のためなのでしょうか。いま、ここにいる私がなすべきことがあるのでしょうか。心の中のモルデカイはなんと問うてくるでしょうか。
これが、今日の聖書箇所のメッセージです。
「あなたは王宮にいるゆえ(…)難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。(…)あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。(エステル記4:13-14より)