アラフォーが近くなり、世間の変化の目まぐるしさについていけない自分を感じています。
ふと興味をひかれたものに、取り組むまでの腰の重さが年々ひどくなっていて、近いうちに自分も「老害」と呼ばれる存在に成り果てるのではないかと不安でなりません。
見識を広め、深め、よりよい老い方をしていくにはどうしたらいいでしょうか。
聖書を読みましょう。というのが最初に思いついた答えですが、それで話が終わってしまうので、思うことを少し書きます。
世間の変化は目まぐるしいですよね。結城は「プログラマの心の健康」という文章のトップで「情報不安について」ということを書きました。めまぐるしい!と書いたのは1996年のころ。目まぐるしい変化はずっと続いているようです。
年齢を重ねるにつれて思うのは、世界(社会)と自分との関係をちゃんと考えておかないと、いくらでもゆさぶられるなあということでした。「ゆさぶられる」というのはいろんな意味でです。経済的にもそうですし、価値観についてもそうです。科学的知識もそうですよね。
テレビでコマーシャルが流れてきたらすぐに買うなんてことを盲目的に続けていたらたいへんです。これは効く薬だよとあやしげなものを飲んではまずいです。社会と自分との関係を理解し、自分の中に正しい知識、よい知識を入れ、価値観を保っていないと、いらないものを売りつけられるはめになってしまいます。
世の中はどんどん変化していきますが、それにどこまでリアルタイムで追従していくべきなのか、少し遅れたくらいでちょうどいいのか、世の中のことなど構わず自分のことに邁進していればいいのか。そういうことは、社会と自分との関係をよく考えないと自分なりの結論は出ないでしょう。
そして社会と自分との関係を考えるためには、それなりに社会のことを知っていなくてはいけないし、それなりに自分のことを知っていなければならない。さもなければ、両者の関係なんてわかりませんから。
年を重ねていくときに私が心がけていることの一つは「自分よりも若い人の話に耳を傾ける」です。若い人というのは現代の動きに敏感で、というか現代を産み出している当事者です。若い人の話に耳を傾けるというのは社会について学ぶということにもつながります。それが目的のすべてではありませんが。
若い人の話に耳を傾けるためには「身を低くして学ぶ姿勢」が必要です。若い人に対して、相手が若いからという理由で相手を軽んじてはいけません。むしろ若い人からたくさん学ぼうという謙虚な態度が大切であると私は思います。
「新しいことに取り組むのに腰が重くなる」という気持ちは非常によくわかります。さらに重ねていうならば、年齢を重ねるごとに何かが「できなくなる」だけではなく「関心がなくなっていく」というこわい事態があります。いろんなことに関心がなくなり「どっちでもいいや」の領域がどんどん増えていくのです。これはじんわりとした恐怖があります。
ただ、人生は短いので、年齢が加わって能力が落ちて残り時間が短い中で、新しい世の中の動きに追従することは難しくなります。私が心がけていることのもう一つは「新しいものが出たときちょっとだけでも触れてみる、試してみる」です。「どんなものなのかな?」と少しだけでも見てみる。できれば試してもみる。そのようなわずかな一歩を踏み出しておくのは大事だと思っています。
若い人を出し抜くまで十分うまくできなくてもいいのです。長い時間を費やさなくてもいいのです。ちょっとした一歩だけ、一口だけ、「こんなものがあるんだ、ふーん」でもいいので、手を付けておく。それは意外に大事なのかなと思っています。
若い人との付き合いや新しいものへの対処は「社会」とどう向き合うかという話です。自分の中にないもの、自分の外側にあるものとの付き合い方ですね。それに対して「自分」とはどう向き合えばいいのでしょうか。
私個人としては「継続」と「発表」が大事だと思っています。
自分が自分なりの活動をする。たとえば私の場合には文章を書いたり本を書いたりする。それは仕事でもあり日々の重要な活動です。それを「継続」していくこと。そして自分の中に閉じ込めて終わりではなく「発表」していくこと。それが重要だと思っています。
なぜ継続していくことが大事かというと、自分の能力が低くても、継続することによって思わぬ力をえることができるからです。「継続は力なり」そのまんまです。それはよりよく老いることにもつながるかもしれませんね。老いれば老いるほど継続していく量が増えていくことになりますから。
継続して活動するだけではなく「発表」が大事であるとも思っています。活動した内容を自分だけで終わらせるのではなく、Webでも本でもSNSでも、どんな形でもいいので、外に出すということです。
発表、すなわち「ひとさまの目に触れるようにする」ことの効果は絶大です。あまりにも恥ずかしいのはいやなのでがんばってよいものにしようと思いますよね。それは活動にハリを生みます。また発表することで、興味関心を持っている他の人とのつながりも生まれます。自分の外から自分の中へという向きだけではなく、自分の中から自分の外へという向きの流れがあることは大事です。
現代はすばらしい時代で、非常な低コストで自分の活動を発表することができます。もちろんネットがあるからです。これはまた「継続」とも関係しますね。ネットで公開したものを積み重ねていけるからです。
「自分」を充実させていくために、活動を「継続」して「発表」していく。その結果として「社会」との関係が生まれていく。すべてつながっています。そうすると、日々の活動がより素敵な輝きを持ってくると思います。今日の一日は単発ではなく、これまでの自分の活動の継続として行われることになるからです。
ここまでの話は、自分が社会と関係しつつ活動するというものでした。でも、もっと内面的な部分はどうでしょうか。仕事や活動という意味の充実だけではなく、内面的な深み、生きているということの意味を考えていく、感じていく、とらえていく、という方向の充実はどうなのか。
私個人の考えですが、生きていることの意味を真剣に考え、充実した人生を送るためには必ず「死生観」に直面することになります。なぜなら、自分は死ぬからです。この世にあるものすべてを手から離し、別れを告げるときが来ます。だとしたら、この世の活動がどんな意味を持つのだろうか。
「すべての人は草、 その栄光は、すべて野の花のようだ」そして「まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」と聖書に書いてあります。人生は過ぎ去り、枯れてしぼむ。まさにそうです。でも、聖書の言葉は続きます。「だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」と。
目まぐるしく変化する「社会」にあって、わずか数十年の人生を送る「自分」を思うとき、永遠に立つ神のことばである『聖書』は大きな指針となります。
この文章の冒頭で、藪から棒に「聖書を読みましょう」と書きましたが、ようやくそこまで戻ってきたことになります。結城はここ四半世紀聖書をずっと読んできました。現在の私の生き方に最も大きな影響を与えた本です。ぜひ、聖書を読んでください。