真理は私たちを自由にしますか。
難しい問いです。しかし基本的にはその通りだと思います。なぜかというと、虚偽や思い込みや錯誤は往々にして私たちをとらえ、誤った認識の中に束縛するものだからです。真理によって束縛から解放されるならそれは自由を意味するでしょう。
コンテキストを少しずらすと、これは信仰の話になります。罪と死の束縛から、キリストへの信仰によって解放されるなら、私たちは自由になるからです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。(ヨハネ8章より)
コンテキストを変えます。嘘をつき続けていたり、誰かを騙し続けていると、人の心は苦しくなるものです。自分の嘘にとらわれ、嘘をつき続けるためにずっとそのことを意識しなくてはいけないというのは不自由な状態です。そこからの解放は、嘘をつき続けるのをやめることでしょう。
コンテキストを変えます。自分の中に正しい知識がない場合、間違った行動をとったり、判断ミスをしたり、不利益を得る選択をしたりします。正しい知識、正しい考え方に触れ、それを自分のものにすることで、間違いやミスや不利益から逃れやすくなります。それもまた自由を得ることにつながるでしょう。
このようにおおむね「真理は自由を得る」ことへつながるのですが、注意点もあります。それは、真理は必ずしも心地よいとは限らないということ。真理は甘やかしてくれない。真理だから。自分の真の姿を見るのはときに苦痛を伴います。そのために、自ら虚偽の束縛を選ぶ人もいるかもしれません。