2018年02月13日(火)

質問

はじめまして。

私はキリスト者ではありませんが、人の認識や観測の及ばない絶対者のような概念が存在する可能性はありうると考えています。

そこで質問なのですが、結城先生はなぜキリスト教を信じるのでしょうか。なにか神のような概念でとどまっても良いところをキリスト教の神に限定するのはなぜなのでしょうか。

また、どのようなきっかけでキリスト教に触れ、それを信ずるに至ったのでしょうか。

回答

ご質問ありがとうございます。

「神のような概念」で、とどまっていられる人は余裕のある人だと思います。自分の知識として神を調べたり、教養や趣味の一環として神を考えたり、宗教を選んだりするという意味で余裕があると思います。

私の場合には「だめだ、私は自力では絶対生きていけない」という経験を通ったときがあり、私を愛する人格を持つ聖書の神に出会い、イエスキリストの十字架の救いを受けました。キリストを信じる信仰により、私はこの世の命を終えたとき天国に行く確信を得ることができました。

また、この世を生きていくための愛の基準を知り、自分は愛に自力で到達しえないけれど、神を信じ、愛へ向かっていく姿勢が大切であることを知りました。いつも喜び、たえず祈り、すべてに感謝することが人生を生きていく秘訣であることも知りました。

キリスト教の神が本当に存在するのかを、他者に対して数学のように証明することはできません。しかし、私は聖書の神が確かに存在することを信じています。これが数学的な意味で正しいかどうかはわかりませんが、私は人生を賭けているのです。

信仰の決心は、結婚の決心と似ています。抽象的な「結婚相手という概念」と結婚するのではありません。それでは結婚の意味はありません。人格を持ち、私の愛を受け入れてくれ、私を愛してくれる相手だから結婚するのです。この結婚相手が正しいかどうかは数学的に証明することはできません。しかし私はこの結婚相手が生涯を添い遂げる伴侶であることを信じています。私は人生を賭けているのです。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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