「無責任/責任」と「求める/与える」の二つの軸で、人生の八十年を説明できるかもしれないと思いました。
これはかなり当たってるのじゃないでしょうか。
二十歳までは、無責任に求める。異性であれ、学問であれ、スポーツ、芸術、人間関係、読書、とにかくなんでも、無責任で構わないから、とにかく求める世代。
四十歳までは、責任を感じつつ求める。異性からも、仕事からも、人間関係からも、節度は持ちつつも、「相手から何が得られるか」 を考えずにはいられない世代。
六十歳までは、責任を感じつつ与える。六十前後から、求める気持ちよりも与えたい気持ちが増してくる。自分の中に入れることをそれほどは求めない。むしろ他者や社会や世界に何かを与えたくなる。自分のこれまでの仕事や、生き方をフィードバックしたい世代。
八十歳までは、無責任に与える。すでに世の中のトレンドや関心事と自分自身は大きく乖離している。だったら、何を遠慮するのか。誰の視線や思惑を気にするのか。自由なのだ。自分が、自分の感じるままに、良いものを良いといい、悪いものを、悪いと言う。誰に遠慮することがあろうか、と言う世代。
無責任・責任。求める・与える。この二軸はなかなか良さそうだなと思います。 あなたはどう思いますか。
結城は現在53歳なので、やや「無責任に与える世代」に近づいています。若い人を無責任に煽り、若い人を無責任に励ますのは大好きです。ともかく思いっきりやってみたら?と言いたい感がハンパない。
結城はいくら長生きしてもあと三十年と少ししかこの世にいません。クリスチャンのあなたとは永遠に一緒にいられますけど、まあそれはまた別の話。わたしは、この世に生きている間、自分が表せるものすべて、自分が残せるものすべてを最善にしたいと思っています。あなたのために。
人間は、何で計られるか。もちろん愛で計られる。愛とは何か。自己犠牲である。限られた自分を他者のためにどれだけ燃やしたか。それが愛である。
ほぼすべての人間は、自分のために生きる。私もそう。自分の時間をどれだけ他者に与えたか。それが愛である。他人のことを考える。他人の世話をする。他人がよりよい生を受けるための活動をする。それが愛に他ならない。
あなたは今日、愛に生きたか。
誰かの話を聞くこと、それは愛である。
誰かに慰めの言葉を送ること、それは愛である。
誰からも顧みられない人に対して、微笑みを送ること、それは愛である。
自分の少ない蓄えを崩して他者をもてなすこと、それは愛である。
あなたは今日、愛に生きたか。
人間は、誰も、愛に生きることはできない。愛に生き続けることはできない。もしも、自分は愛深い人間だと言う人は、真実が見えていないのだ。ナルニア国物語のC.S.ルイスは言った。自分は謙遜であると思う人は、謙遜ではないと。
あなたは今日、愛に生きたか。
矛盾した問いだ。「私は今日、愛に生きた」と言える人なんかいないのに、そう訊くなんて。みんな、自己満足と自己愛だけに生きているのに。
良いことをたくさんした人はいる。良いことをした人もたくさんいる。とあなたは思うかもしれない。でも、違うんだ。その百万倍くらい、自分勝手なこと、自己中心なことをしているのが人間なんだ。
神の基準には届かない。神さまは私たちの良い活動を喜ぶ。もちろんだ。でも、私たちが良い活動をすることで神の基準をクリアすることはできない。
人間の努力で神の基準に達することはできない。自分の力でこの世は渡れないと思うこと。自分を信頼などできないこと。それらの「自己の無力を自覚する」のがポイントなのだ。
「私は今日、愛に生きた」と自信を持って言うことはできない。でも「私は今日、愛に生きたいと願う」と自信を持って言うことはできるのではないか。愛に生きようと願うこと、それはすなわち、愛の源泉である神を求めることに通じるのではないか。
そんなことを思っている。