総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 マタイによる福音書 27:21-22
マタイ27:21-22の記事はいつも感慨深く読む。この場面の後、囚人バラバの身代わりとしてイエスは十字架にかけられる。祭司長や長老にそそのかされた群衆の声によって、結果的にイエスの救いが成就する。人間の愚かさや妬みや自己保身がまるでスイッチのようになって十字架の救いが成就する。
もしもイエスの救いを阻もうとする勢力が強かったなら、ここではむしろイエスの命を助けたはずである。それで十字架をなしにできるから。でも、単純化していうと、人間の罪がスイッチとなってイエスの十字架による救いを成就する方向に進んだことになる。私はここがすごいといつも思う。
しかもこれは三次元的な比喩とも言える。このシーンで、囚人となっていたバラバは、イエスが十字架にかかることによって救われた。これは罪びとである人間が、イエスの十字架によって救われることの比喩であり、例示である。
ふと思ったんだけど、自分が好きな聖書箇所を物語の形にするというのはどうだろうか。聖書の中には、自分がなぜか深く引っかかる部分がある。気になる聖書箇所。もしかすると、その箇所を自分なりの物語として書くことができたなら、なぜその聖書箇所が気になるのか、なぞがとけるのではないだろうか。
いままで、歴史というものは苦手だとずっと思っていたんだけど、今年になってWeb連載で「いにしえの数学」シーズンを書いていくうちに、少し認識が変わってきました。めんどくさがらずにたどるなら、自分なりの発見があるものだと感じます。もちろん本当に簡単なことに限るけど。
自分の文章として何かを書いてみるなら、たとえその題材そのものは古くからあったとしても、自分にとって発見があるのではないか。そして、半ば不可避的に、現在の自分の息吹が含まれるのではないか。つまりは、ささやかな温故知新です。
それは自動的にオリジナルなものになるはず。自分の心のひだ、脳のくぼみ、魂のうつわに題材を流し込んだなら、きっと、私ならではの形が立ち現れるのではないかと思うのです。
いまの連ツイに書いた話、ぼんやりとは考えていたことでもある。たぶん断片はEvernoteにもいくつかメモがあるだろう。でも、このTwitterという場所は独特。聞き手がいるからだ。虚空に話しているのではない。私の言葉を聞いてくれる人がいる場に向かってささやいている。親密な場だ。