一般論。
誰かをおとしめるのは、やめた方がいい。誰かをおとしめたとしても、あなたの地位が上がるわけではないから。むしろ、逆に、あなたがおとしめようとした分だけ、あなたの地位が下がるだけだから。それは、少し考えればわかる。あなたは誰かをおとしめるような人をすばらしいと賞賛しますか?
それでも、どうしてもあいつだけはゆるせないと言いたい人もいる。一矢報わねば気が済まないと言いたい人もいる。あなたが何をするかは、もちろんあなたの自由だ。あなたの自由であり、その結果はあなたが負う。それだけの重荷を負うことを、あなたが心から望むなら、きっとそれを止める人はいない。結城は、個人的にはそれはとてつもなく愚かだと思うが、愚かな選択をするのも個人の自由だ。
心から恨みたい相手がいたとしよう。結城だったら、そんなときにどうするか。心からうらむ人がいたならば、私だったら、自分の人生に関わりを持たせたくないと願うだろう。恨みを晴らすアクションなどはおそらく考えない。そんなに深く、自分の人生に相手の足跡を刻ませない、と思う。私の人生に、相手の足跡を刻ませないことを望むと思う。
もしかしたら、相手に恨みを晴らすために、相手の幸福を祈るかもしれない。なぜならそれが最も効果的に「恨みを晴らす」方法だから。幸福を祈るのは、相手の処遇を神に委ねる方法だ。ベスト・ソリューション。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。(ロマ12章より)
結城は、自分よりも神の方が公正で、しかも力があることを知っている。だから、恨む相手の幸福を祈る。それによって、相手に、最も適切な報いが行くことを知っているからだ。憎らしい相手の頭に燃える炭火を積むことができる。
恨む人の幸福のために祈る。それは、神への信頼の証であり、最も効果的な復讐であり、そして何より自分自身の未来のためである。誰かへの恨み・憎しみ・妬みという暗く重い鎖を引きずって、いったい誰が軽やかで柔らかな幸せに至れるだろう。
ここには深い真理がある。あなたが憎らしいと思う相手のために祈れ。それができるのは、世界中であなた一人だ。恨み・妬み・憎しみは、初めのうちは単なる「感情」だ。でもそれらを毎日持ち続けていると「習慣」になり、やがて、恨み・妬み・憎しみがあなた自身の「属性」になる。
属性になるとはどういうことか。それは、あなたという人格の中に、恨み・憎しみ・妬みが深く根を張るということだ。あなたが主人公のラノベがあったとしたら「この主人公は、恨み・憎しみ・妬みを決して忘れない。死ぬまでその気持ちを持ち続ける」と書かれるということだ。
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7章より)
この聖書の言葉は「他人に対する評価関数と同じものが自分にも適用される」という話である。そしてこれは、真剣に考えるべき言葉なのだ。