きちんとやること。しっかりやること。まちがえないこと。わすれないこと。たのまれたことをやりきること。というのが責任だとするならば、ときどき無責任になる必要があると思う。少なくとも私は。
すべてに対してすべての時間、責任を全うするのは不可能である。だから、選ぶことになる。いまは休みとか。今日はサボるとか。奥さんだけをえこひいきするとか。わざと忘れたり嘘をついたり手を抜いたりする。ときに適切にそういうことをするのが、大事な場面で責任を果たすことにつながる、といいな。人間のサスティナビリティってそういうことではないか。
聖書に「裁くな」とある。人を裁くな。人のことをあれこれ口出しするな。人は、ほんのわずかしか見ていないのだから。人は神ではない。背後にどんな歴史が思いが葛藤があったのかはわからない。だから、人のことをあれこれ言わないほうがいい。
やろうとして失敗することはある。忘れないようにしていたのに忘れることもある。ここぞというところでポカをしたり、何度も何度も自分の悪癖から逃れられなかったり。
自分をゆるしてあげよう。自分の存在そのものを肯定してあげよう。失敗やポカや嘘や手抜きはほめられたことではない。でも、あなたの存在をおびやかすものではない。
あなたはそのままで最高の存在である。私もこのままで最高の存在である。あの人もこの人もそれぞれに最高の存在である。行ない、思想、責任無責任、能力の差、いろいろあるけれど。いま生きてるということの意味を思う。
自分をゆるしてあげよう。自分を裁くのをやめよう。あなたはそのままで価値のある存在である。誰もそんなこと言わないかもしれない。そもそも、そばに誰もいないかもしれない。でも、神さまはそう言う。神さまはいつもそばにいる。だから生きていられるのだ。
おつかれさま。なんだかんだ言っても、なんとか今日を過ごしてきたね。おつかれさま。ありがとう。